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【二十七日目】読書感想 本田由紀『多元化する「能力」と日本社会』

こんにちは。

今回紹介する本は本田由紀『多元化する「能力」と日本社会――ハイパー・メリトクラシー化のなかで』です。

 

 

さて、今回はいつものように感想を並べるだけでなく、内容の要約と気になった点の指摘も行いたいと思います。よって、簡単に項目を立てて書いていきたいと思います。

 

 

1.この本を読んだきっかけ

最近私が興味を持っていることの一つは「能力主義と社会」。資本主義が発達し新自由主義の台頭した社会の中で生きる人々は、その人の持つ能力(何ができるか)によって価値づけられてしまうのではないか、と感じています。人が人との関係のなかで持つ価値、あるいは生まれながらにして個人が持つ絶対的な価値というものがあるとすれば、それは「何ができるか」だけでは差し測れないものであると思うのですが、そのような非能力的な価値を見出すことが今の社会の中では難しくなっているのではないか、という実感がぼんやりとあるからです。

で、このような能力主義の暴走……といってよいのかはわかりませんが、その源泉がどこから来ているのかな~ということが気になっていたら、とある方のブログでこの本が紹介されているのを発見しまして、「おっ面白そうじゃん」と手に取ったというわけです。

とはいえ、肩肘張って読んだわけでもなく、なるほど面白いなぁ~と思いながら読んだだけなので、他の文献やデータと比較して考察するまでには至っていません。あくまで読んだ内容を個人的に整理するためのメモとして感想を書きます。また著者の本田由紀さんは教育社会学を研究されているそうですが、私自身は社会学にも教育学にもずぶの素人ですので的外れな意見もあるだろうことを最初に断っておきます。また、この本が出版されたのは2005年ですので、現在の状況にはそのまま当てはまらないであろうことも述べておきます。

 

2.簡単な要約

メリトクラシーとハイパー・メリトクラシー

タイトルにもなっている「ハイパー・メリトクラシー」という聞きなれない言葉ですが、これはいったい何を指しているのでしょうか。

メリトクラシーとは、一昔前の近代社会における人々の社会的位置づけに関するルールのことです。端的に言えば能力主義・業績主義のこと。本文では「貴族による統治と支配(アリストクラシー)に対比して、「メリット」=「能力」ある人々による統治と支配が成立している社会」(同書p.11)と書かれています。

日本社会ではメリトクラシー競争の原理として顕在化してきました。つまり、受験競争や出世競争などの社会的競争において、人々は十全な能力を発揮することが求められてきたというわけですね。受験勉強を考えてみればわかるように、成果を出すためには努力が必要になります。競争のメカニズム内において努力することで、その度合いに応じて自らの位置づけをわかりやすく定めることができたのです。この予測可能性がメリトクラシーの大きな特徴です。

 

これに対して、ハイパー・メリトクラシーは「能力主義を超えた能力主義」を指します。つまり、努力して勉強することでいい大学を出て有名な会社に入り、生涯にわたる安定した社会的地位を獲得できる、というわかりやすい「大きな物語」が消失してしまった現代では、努力によって量的にはかることのできない能力が必要になるということです。このような能力、例えば創造性や能動性、コミュニケーション能力、ネットワーク形成力などが重視される現代社会では、メリトクラシーが持っていた手続きの公平さは排除され、場面に応じた個々人の実質的・有用性に即して個々人の業績を決めるという業績主義の本来の面が強調されてあらわれます。人間を有用性によって判断する道具主義と考えたらわかりやすいかもしれません。能力主義を超えた能力主義といわれるゆえんは、これらの能力の獲得が努力ではなく先天性や家庭環境などの本人の力ではどうしようもない部分に左右されるという側面があるからです。

 

・ハイパー・メリトクラシーの抱える問題

先にも述べたように、もし「能力主義を超えた能力主義」が一般化しているとすれば、そこで必要とされる創造性やコミュ力などは本人の努力ではどうしようもないところで決まってしまうおそれがあります。もちろん、意識的に取り組むことでそれらを身につけることは不可能ではないですが、いわゆる「がり勉」をするようには獲得できないというのも事実ですね。このように運や時勢などに左右される能力が求められる社会では、それらを持たない人はとても生きにくくなります。また、努力して能力を手に入れることを放棄し、ある種の諦めや宿命論を悟ることになるかもしれません。よりスマートな、人付き合いの良く気遣いのできる、知的な、世渡り上手な人間だけが生き残り、そうではないひとは「貧乏くじ」を引かされる羽目になるかもしれません。

 

3.気になった点

 社会学のテキストをじっくり読むのは初めてだったので、研究手法に関心を持ちました。著者はさまざまな統計的データから、学校教育の場や社会でメリトクラシー化が進んでいくのかを明らかにしていきます。たとえば、全国紙の過去数十年の記事の中で「生きる力」という言葉がどれくらい使われたかを分析したり、日韓の高校生の生活調査アンケートから彼らの意識を探ったりします。これらの手法によって、分析や主張の根拠が示されるのですが、これらの相関関係が必ずしも因果関係であるとは限らないのではないかと思いました。本人が意識していない部分に表れている事実をアンケートで確認するのは難しいだろうし……。とはいえ、先に述べたようにこういうアプローチ自体を取る研究を今まで私自身がしてこなかったので、的外れな意見かもしれません。

 

また、筆者の主張に共感できた点として、創造性や能動性などの「ポスト近代型能力」が低い者が高校卒業後に進学を選び、大学を終え社会と直面する段階ではじめて問題が噴出するおそれがあるという指摘(同書p.148)があります。私自身、就職活動を経験してみて感じたのが、企業はコミュ力や創造性を求めるというけれどそれをどうやって図るの?学生側はどう示すの?という問題でした。コミュニケーションの苦手な人にとって、今の就活システムは地獄でしょう。せめて、ポスト近代型能力が不足していることを早い段階で気づければ、それらの能力が必要ではない仕事を求めたり別の方向性で将来を描けるかもしれないのですが……。

 

筆者のいう「専門性の獲得」がハイパー・メリトクラシー化した社会で身を守るための武器になるという主張は、正直なところどれほど有効性があるかはわからないと思います。自分の立脚する足掛かりとして専門の分野を極めたり、自分の専門性に関わる領域でだけ「意欲的」で「創造的」であればよいとしても、その専門性を獲得できるかという時点からすでに私たちは競争に投げ込まれています。もともと近代型能力(勉強に努力できる)などが長けている人やポスト近代型能力を持っている人、両方を兼ね備えた人なら社会と真っ正面からにかかわる前に専門性の鎧を身に着けることが可能でしょうが、そうではない人は?それに、専門性の領域に固執することは実際問題難しいはずです。とりあえずのシェルターとして専門性が機能したとしても、情報化が進んでいく社会ではさまざまな知識や技術のライフサイクルが短くなっています。常に専門性をアップデートしてくことは、文字通り「要領よい」ハイパー・メリトクラシー化した社会に適応した人でないと難しいのではないでしょうか。

 

3.総評

能力主義と社会、人の価値という問題に直接答えを与えてくれる本ではもちろんないのですが、読みやすく示唆に富む部分が多かったと感じています。今回、十分にまとめきれず読めていない部分もあったので、別の文献と比較しながらもう少し考えたい。