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【三十三日目】読書感想 工藤律子『マラス 暴力に支配される少年たち』

こんにちは。もりひびきです。
今回紹介する本は、工藤律子『マラス 暴力に支配される少年たち』です。

 

マラス: 暴力に支配される少年たち (集英社文庫)

マラス: 暴力に支配される少年たち (集英社文庫)

 

 

 

あらすじ。
メキシコ、グアテマラホンジュラスなどの中米にはびこる凶悪なギャング団「マラス」。ネットで「マラス」と検索をかけると、全身に入れ墨をいれた恐ろしい風貌の青年の画像がたくさんヒットする。事実、中米では、マラスが多くの国民の生活を脅かし、強盗や殺人などの犯罪行為を日常的なものにしている。しかし、長年メキシコでストリートチルドレンの取材を続けてきた筆者には一つの疑問があった。まるで悪魔のように語られるマラスの構成員、つまり若者たちは、メキシコの路上で出会う少年たちと同様、根は優しく繊細で、傷つきやすい子供たちに見えた。彼らを社会から排除すべき悪だと単純に断定して良いのだろうか。むしろ、彼らを悪行へと追いこんだ、貧困、政治、親子関係、社会構造に問題の根を見るべきではないだろうか。「マラス」の本当の姿を探るべく、2014年の9月半ば、筆者たちはマラスの人口がもっとも多いと言われる国、ホンジュラスへと飛んだ。

 

マラス」という単語を聞いてピンとくる人はあまりいないのではないだろうか。僕もそうだった。「中米」というと「なんか治安が悪そう」、「ギャング」というとパッショーネヤクザみたいなおっかない人たち……くらいの知識しかないままこの本を読み始めた。

ちなみに、「マラス」で画像検索すると次のような感じだ。

マラス - Google 検索

怖い。怖すぎる。こんな人たちが銃やナイフを片手に迫ってきたら、僕は次の瞬間失禁してしまうだろう。なんというか、日本の社会ではあまり感じられない異様な雰囲気というか、無機質な怖さが画像越しでも伝わってくるようだ。

 

しかし。この本を読み終わったいま、僕は先の感想が間違っていたのかもしれないと考えている。確かに、自分の周りにはこういうギャングたちは全くいない。殺人や強盗が日常茶飯事という場所に生きているわけでもない。にも関わらず、この本を読む中で感じたリアリティは、筆者の丁寧な取材や文章以上に、いま僕たちがこの社会の中で漠然と抱えている気持ちを別の姿で映しだしたもののように思えてならない。

中米でギャングに入ること。日本でいじめを行うこと。一見まったく違う現象のように見えるけれども、それらの当事者である子供や青年たちに「自己肯定感の低さ」「社会的な疎外」などの共通の問題があるとしたら、これらは別種の出来事ではない。筆者がエピローグで書いているように、誰しも自我を確立していく過程で何らかのアイデンティティを求める。認められたいという気持ちは老若男女だれにでもあるものだ。アイデンティティを失ってしまったり、ゆがんだ形で獲得した若者がいるとしたら、それは自己責任で片付けられる問題ではない。つまり、若者を取り巻くより大きな社会的背景が生み出したひずみと捉えることができる。

最近よく考えることだけど、どんなに自分で自由だと言ったところで、この世に生まれ落ちた瞬間から人はさまざまな社会的な関係性にとらわれている。だから、本当の意味での自由なんて想像の中以外どこにもない。関係性はときにしがらみや不平等にもなるから、人はそこから脱しようとしてもがくわけだけれど、努力によって「平等さ」という舞台の上に登れる環境ならいざしらず、そうではない場合もたくさんあるわけだ。どんなに努力したところで他人と同じスタートラインに立てないかもしれない。では、そんな「残酷な」環境の中で生き延びていくためには、幸福に生きるためにはどうしたらよいのだろう。

ストリートで暮らす?ギャングになる?もし日本で生まれていなかったら、それが唯一の道のように見えるのかもしれない。先の見えない社会に生きているということを実感しているからこそ、自分がどこによって立つのか、何者なのか、だれが認めてくれるのかというアイデンティティの問題は他人事には思えない。

 

人間関係がそれなりに良好で安定した家庭環境の子どもなら、家族といるだけで、自分は生きている価値があると自然に感じ、存在意義を疑ったり、求めたりすることすらないかもしれない。私自身、そうだった気がする。ある程度の経済力がある家庭の子どもなら、人によっては最先端のファッション、エリート校の生徒といった社会的ステータス、スポーツや芸術活動での活躍などで、自分のアイデンティティを創りあげることも可能だろう。

 同書326頁

 

その通り。まさに根っからの現代っ子で、幸か不幸か「それなりの家庭」で育った僕なんかは、大学生になってようやく自分の存在価値を考え始めた。あんまり考えずとも生きてこれたのは、それだけ社会のレールがしっかりしているということ。それに、何らかのステータスを手に入れる道のりは、自分の能力や努力とは無関係にすでに整備されていた。

 

ところが貧乏なスラムの少年たちがそうしたアイデンティティを手にするのは、なかなか難しい。そもそもお金がないと確立できないアイデンティティなんてもの自体、うさん臭く、まがいものなわけだが、それでも現代資本主義世界ではしばしば、いくらかの投資によって、「とりあえずのアイデンティティ」が形成される。

  同書326頁

 

新自由主義的資本主義がもたらした弊害の一つがこれだと僕も思う。この「うさん臭さ」は現代ではますます巧妙になっているし、悪しき能力主義のもとでは経済的成功イコール社会的な価値や幸福であるという演出が過度になされている。そういうものと無縁なスラムでは、逆に、ギャングになることで周りから「一目置かれ」ようとする。

問題は、アイデンティティは自分が決めるものではないということだ。自分がこうありたい、こうあるべきと思っている姿と他人から見られた私というのは全然違う。そして多くの場合、「外見」「印象」「収入の多寡」「社会的地位や肩書」「風評・うわさ」のような身も蓋もないことが私のアイデンティティを決定づけてしまう。だって他人はそんなに深く私のことを知らないから。興味もないから。外面と理想の自分像が一致している人はいいだろうが、そうではない人は……そのズレが生み出す苦しみをどこへ持っていけばよいのだろうか?