精神の煮こごり。

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【四十八日目】無感動人間と創作物

物心ついたときから、感動したことがない。

 

というと言い過ぎだが、僕はあまり感動というものに馴染みがない。特に創作物に対する感動がない。一番好きなのは読書だが、どんな文芸書を読んでも、あるいは専門書やエッセイや論文を読んでも「がーんと頭を殴られたような出会い」というのが今まで一度もなかった。一番好きな読書でさえそうなのだから、ほかのフィクションに関してはいうまでもない。映画も、音楽も、ゲームも、とりわけ感動した記憶がない。

こう書くと、なんだか自分がひどく冷血でロボット同様の存在なのではないかという気がしてくる。あながちまちがっていないかもしれない。おじいちゃんの葬式があったとき、家族は全員泣いていたが、僕はなんの気持ちもわいてこなかった。おじいちゃんと特別仲がよかったとか、悪かったとか、そういう話ではない。人並の思い出はあったし、死ぬ数年前は完全にボケてしまって自分の家がどこだかもわかっていない祖父を見て心を痛めていた。にも関わらず、訃報を聞いたときも、通夜のときも、遺体の入った棺を目の前にしたときも、強く心を打たれる悲しさ、というのはまるでなかった。周囲の人間が泣いていたこと、皆が黒い喪服を着ていて自分の知らない親戚がたくさんいたこと、どういう表情をすればよいかがわからなくてとりあえずうつむいていたことは覚えている。あとは、斎場の床のタイルが埃一つおちていなくて、ピカピカに輝いた表面に自分の顔が映っていたことも覚えている。そういうどうでもいいディティールなら覚えている。

 

閑話休題。僕は創作物に感動したことがほとんどない。しかし、読んだもの、見聞きしたものの好き嫌い・良し悪しはわかる。例えばこのブログで以前取り上げたように、新井素子の小説は面白くないと思うし、ルーシャス・シェパードの小説は面白いと思う。パウル・クレーマーク・ロスコの抽象画は好きだけれど、印象派の絵はあまり好きではない。音楽はあまり聴かないからよくわからないけど、前は古いプログレッシブ・ロックやエレクトロっぽい曲を好んで聴いていた。

感動、という言葉を辞書で調べると「強く心を動かされること」と書いてある。「強く」という部分がよくわからない。よく、他人の書いたものを読んだり体験談を聴いたりすると、「これを読んだ/見た/聴いたとき、頭ががーんと殴られるような強い衝撃を受けた」「これを知ってから世界の見え方が変わった」「涙が止まらなくなった」といったフレーズを聞くが、そういう経験に乏しいのだと思う。そういう経験をしている人をうらやましく思うこともある。

思うに、僕にとっての感動とは「情動」ではなく「気分」なのだと思う。喜び、怒り、悲しみ、恐怖といった強い典型的感情、すなわち情動ではなく、なんとなーく「いいな」と思う。あるいは「つまらない」と思う。その判断は、作品を読んでいる最中から徐々に醸成されてきて、読み終わったときにはある程度色づけられている。変化はすごくゆっくりなので、強い情動のような激しい心の動きはほとんど感じられないのだけれど、確実に何かが生み出されている。言語化するのはすごく難しい。だから、読んだ本の感想を書くのはけっこう大変だけれど、書きあがったときにはなんともいえない満足感に包まれる。自分の気持ちを表すのにぴったりな言葉が見つかったときには、ああ、これだ、とすとんと腑に落ちるのだ。