精神の煮こごり。

毎日一回以上更新。次の目標は三ヶ月継続!

【八十一日目】線引きの難しさ

今日、大学の学部生向け授業で学んだことが結構印象的だったので、個人的な備忘録としてここにメモしておく。

 

エンハンスメント(enhancement)という言葉がある。「(機能などの)改良、増強、高まり、充実」といった意味だ。この言葉は、「人間の持つ機能を高める」という意味で、スポーツや医療、工学などの文脈で用いられることがある。例えば、陸上選手がランニングシューズを履くことは「走る」という機能を高めるという点でエンハンスメントだ。また、アスリートがドーピングをすることも、低身長の人が骨延長の手術を受けるのも、ある種のエンハンスメントだといえる。

では、どこまでのエンハンスメントが倫理的に認めることのできるものだろうか? 陸上選手がシューズを履くことは誰も批判しない。それは、人間の持つ身体的な機能を自然な形で高めることが目的であり、器具の使用があくまで補助のレベルにとどまっているからだ。しかし、陸上選手がドーピングをすることは許されない。これはいわば「過剰なエンハンスメント」として不正行為とみなされる。

しかし、人間の身体的な機能の補助や、生理的な限界という範疇内でのトレーニングを線引きの基準にすることは、絶対的に正しいわけではない。極端な話、遺伝子操作や手術などによって後天的に人間の特質を高めることは技術的には可能である。骨延長手術はまさにそうだろうし、弱った心臓にペースメーカーを埋め込むこともエンハンスメントであるといえる。では、どこまでが許されることで、どこからが許されないことなのかを、どうやって線引きするのだろうか?

 

一律な整合的基準を求めること自体がナンセンスだ、という批判もある。エンハンスメントの良し悪しを包括的に評価する一律の基準があるかのように思い込み、そうした基準を追及するあまり、人間の生の領域が道徳的に多様であることへの配慮を欠いてしまうという批判だ。これはもっともである。大切なのは、スポーツや医療など、その都度の社会的文脈を丁寧に洗い出し、一つ一つに評価を下すこと、そのような状況を許容する社会を作ることだ。

 

……しかし、これが一番難しいのではないか? 世の中にはさまざまな人間がいて、道徳的な規準や価値観もそれぞれ異なっている。そのような多様性を承諾したうえで、社会的な文脈を確認すること、「ここまではOKだよね」という合意を取ることそれ自体が難しい。理屈を優先する人もいれば、感情を優先する人もいる。感情と理屈は絡み合っている。だったら、なおさら合意を形成することは夢のまた夢じゃないだろうか? 地道な話し合いや文脈の洗い出しの果てに、はたして本当に皆が納得のいく合意を作り上げることはできるのだろうか?