精神の煮こごり。

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【九十二日目】博物館や美術館に行くということ

博物館や美術館によく行きますか?

 

僕は美術館が好きだった。「だった」と過去形なのは、今は嫌いになってしまったからではない。今は行かなくなってしまった。

数年前、とある国立の美術館で一年弱のインターンシップをしていた。学芸員を目指していたためだ。そのころは、美術館という施設を知るためにインターンの業務外のときも積極的にあちこちの美術館に足を運んだ。現代芸術の展覧会には特によく行った。現代芸術の制作にはほとんどの場合、思想的な背景や美術史を踏まえた背景がある。つまり予習さえしていけば一見わけのわからない作品も概念として理解できるようになる、ということだ。これがいいのか悪いのかは別として。

では、それだけよく美術館に通っていたというのになぜ今は行かなくなってしまったのか? それは、一度美術館に行ったことで、どれだけのことが学べるのだろうということが気になってしまったからだ。費用対効果という話ではない。もちろん、美術史の勉強をして作品のすばらしさを「頭で」理解したとしても、やはり実物を見ることで得られる経験には代えがたいものであるとはわかっている。百聞は一見にしかず。しかし、作品を見たところで常に心動かされるわけでもない。いや、たいていの場合、僕は「ふーん」で済ませてしまう。前にも書いたけど、僕は感性が貧困というかいわゆる無感動人間なのだ。だから、美術館で作品を流れるように次々眺めるという経験よりも、一冊の本に書かれたことを何度も反芻して読み込み、理解することのほうが、何かを得られたという実感がより多く持てるという気がするのだ。

 

美術館に多く通って、ちょっとわかったことがある。それは、美術館で作品を見ることの「利」は時間をかけて現れるということだ。例えば幼いころからよく美術館に連れていってもらっていた場合。作品に触れる機会が多いと、自然と芸術作品を眺める目というか、美的鑑賞における趣味嗜好が養われていくのかもしれない。地表にしみこんだ雨水が徐々に地下水脈を成すように、意識にのぼらない領域で感性的な価値に対する善し悪しの視点がはぐくまれるのかもしれない。かもしれない、というのがミソで、そうならない場合も十分に考えられる。現に僕は幼いころ何度も美術館に連れていってもらったことがあるが(喜多川歌麿の浮世絵の展覧会とか)、はっきり言って退屈だったという記憶しかない。育成失敗である。ただし、自分で何かを作ることは好きだった。小中学で好きだったのは音楽ではなく圧倒的に美術だった。

というよりは、大学に入って思想や理論を学んだことで芸術作品が好きになったという側面があるので、精神の成熟がようやく追いついたということかもしれない。

暇な時間、余暇の時間が潤沢にあるとき、美術館に行きまくるのは良いと思う。ほとんどの作品が自分にとっては毒にも薬にもならないものだろうが、何度も何度も足を運んでいるうちにいつか毒か薬に巡りあうはずである。それもかなり激烈な奴に。そうなれば最高だ。問題は、忙しすぎるとそんな余裕さえ持てなくなるということである。二言目にはコスパと言われるこの現代、なかなかそんなにまとまった時間を手に入れることは難しい。

 

とはいえ、美術館に行く、作品を見る、ということは真剣にすればするほど体力を使うものである。フルマラソンとまではいかなくても、ジョギングや軽い登山くらいには体力を使う。好きな作家の展覧会に行くときは、事前にニンニクのがっつり入ったラーメンを食べてスタミナをつけていたくらいである。ベンチがないと、途中で休憩を挟まないと、結構つらい。むろんほとんど流し見のようにさーっと通り過ぎればそこまでは疲れないのだが、生来の貧乏根性というべきか、どうしても払ったチケット代のもとを取るつもりでじっくり丁寧に見ていこうとしてしまう。

 

要するところ、

・作品から得られるものが少ない(気がする)

・体力がない

 

この二点が美術館に行かなくなった理由に尽きる。せめて筋トレでもして体力をつければ見に行くんだけど。